東京千代田区・江戸城
〒100-8111
東京都千代田区千代田周辺(旧、武蔵国豊嶋郡江戸)
皇居東御苑(本丸・二の丸・三の丸):月・金曜休園
入園時間:9:00〜16:00(3〜10月)/9:00〜15:30(11月〜2月) 大手門、平河門、北桔梗門より入園可能(無料)
※事前に宮内庁管理課参観係に電話で申し込めば皇居一般参観区域(西の丸周辺)も入園可能。
 
江戸城マップ 【地図を拡大表示】
 
天守
江戸図屏風
▲江戸図屏風に描かれる江戸城天守
ここに描かれている天守は秀忠による元和度造営の天守ではないかといわれている。
江戸城には本来あるべき天守閣がない。
現在残っているのは石垣のみで、八代将軍吉宗が瀬戸内の御影石で積みかえたものである。黒っぽい伊豆石が家光時代の石垣だ。

もちろん初代家康の時代、慶長12年(1607)9月には、太田道灌による五層五重の構造、天守台のからの高さ48メートル、天守台の高さも加えると70メートルもある国会議事堂の中央塔とほぼ同じ大きさの堂々たる天守閣があった。その外見は鉛瓦と白亜総塗籠(はくあそうぬりごめ)を使い、富士の姿と並び立つ美しさと称されていた。
元和8年(1622)には二代将軍秀忠が本丸改造と共に本丸東北部に高さ44メートルの天守閣を建て替えた。
さらに寛永14〜15年(1637〜1638)三代将軍家光が壁をすべて加工した銅版で覆った高さ約60.6メートルもある天守閣を築いた。天守台は23メートルだったから全体で80メートル以上の巨大建築になる。しかしこの天守閣もわずか20年後の明暦3年(1657)正月の明暦の大火、別名振袖大火で焼失してしまう。

大火後、本丸のみ再建され天守閣は再建されることはなかった。再建計画に政務をあずかっていた保科正之が「天守閣はじつは軍用には役に立たない」と主張したため、老中たちとの相談の上、中止になったからだ。そうして天守台のみ再建した現在の状態に至る。
天守台
▲現存する天守台石垣
 
本丸
富士見櫓と数奇屋多聞櫓、北桔橋高麗門のみしか現存していないが、かつては塁上に三層櫓3基、二層櫓2基、多聞櫓16基。本丸御殿には公的行事を行っていた表御殿、将軍居所の中奥、奥向きの大奥が広がっていた。
現在の本丸敷地内 桜田門・櫓門
▲現在の本丸敷地内
現在は一般解放されていて、憩いの場として誰もが入ることができる。

  ▲江戸城本丸園石碑
本丸表御殿の内部がわかる。
 
二の丸
太田道灌時代に金沢八景より梅を移植して、二の丸庭園東北部には梅林が広がっていた。
明治以降に水壕埋め立てなど行われていたが、二の丸庭園を区画する石垣が残っているので比較的かつての形を推定しやすい。
二の丸に残る3つの番所は、百人番所、大番所、同心番所とある。城の奥の番所ほど位の高い役人が詰めていた。
同心番所 大番所
同心番所   大番所
下乗門桝形内にある番所で、登城する大名の供の監視に当たっていた同心が詰めていた。 本丸に向かう諸大名らを確認する戸張番(とばりばん)が詰めていた。
 
百人番所
百人番所   日本最大の規模を誇る番所建築で、本丸と二の丸へ通じる要所に設けられていた。
鉄砲百人組と呼ばれる、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めており、各組には同心が100人ずつ配属されていた。
 
和田倉噴水公園
かつて和田倉門があったこの地は、現在平成天皇結婚記念(1961年)に作られた噴水公園になっている。
和田倉噴水公園 和田倉噴水公園
 
和田倉橋
和田倉橋 江戸城守衛の内郭門の一つで「士衆通行」の為に架けた橋と門とが一つになっていた。
現在の橋は関東大震災で壊れてしまった橋を昭和47年(1972年)に復興されたもの。
江戸時代この門には常に鉄炮十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が用意され、警備は二万から三万石の譜代大名が任されており、幕末には会津藩上屋敷が門内にあった。
 
会津藩上屋敷跡
当時は和田倉門内にあり、9,150坪という大変大きな屋敷地を拝領していたが現在では皇居前広場となってまったく面影が残っていない。
会津藩上屋敷跡 会津藩上屋敷跡
 
大手門
明治初頭の大手門渡櫓 大手門渡櫓は1945年(昭和20年)4月に太平洋戦争で消失したが、1968年(昭和43年)に再建された。
大手門のすぐ横に旧大手門渡櫓の鯱が置かれているが、これは太平洋戦争で消失するまで渡櫓の屋根に飾られていたもの。製造されたのは明暦の大火(1657年)での消失後に再建された時で、頭部に「明暦三丁酉」と刻まれている。
明治初頭の大手門渡櫓(大手門渡櫓案内板より)
旧大手門渡櫓の鯱   現在の大手門
旧大手門渡櫓の鯱 現在の大手門
 
半蔵門は将軍専用脱出ルート!?
半蔵門
半蔵門の名前の由来、服部半蔵といえば徳川家康を警護した伊賀忍者の頭領だ。
この門は甲州街道の起点になっていて、当時はなぜか全く整備されていない道路だった。

危急の際、将軍は半蔵門から脱出し甲州街道を西に向かう。街道沿いの大久保には百人隊、八王子には千人同心が配置されており、それらと合流して甲府城まで逃れる手筈になっていた。
そのため道路が整備されて賑わってしまうと、いざという時脱出ルートとして使えない。
この街道は大名ですら決められた藩しか使用することができなかった。
 
巡った日:2006/11/04